
1853年(嘉永6年)、アメリカ海軍のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に現れました。世にいう「黒船来航」です。ペリーはフィルモア大統領の国書を手渡し、200年以上続いた鎖国を解いて開国するよう日本に迫りました。幕府は即答を避け、ペリーは「1年後にまた来る」と告げて去ります。そして翌1854年、再来航したペリーとの間で日米和親条約が結ばれ、日本はついに開国。ここから幕末の激動が始まりました。
“黒船”4隻のうち蒸気船は2隻だけ。しかもペリー自身は日本行きを嫌がっていた。
ペリーは、ある日とつぜん現れたわけではありません。実はその数十年前から、日本の周りには少しずつ外国船が近づき、幕府は対応に頭を悩ませていました。ペリー来航は、その積み重ねの“総仕上げ”として起きた出来事です。ここに至るまでの流れを見てみましょう。
江戸幕府は17世紀前半、キリスト教の禁止と貿易の管理を目的に、対外交流を大きく制限する体制をとりました。これがいわゆる鎖国です。とはいえ完全に国を閉じていたわけではなく、長崎(オランダ・中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)という4つの窓口を通じて、限られた交流は続いていました。
18世紀の末になると、日本の近海に外国船がたびたび現れるようになります。1792年にはロシアのラクスマンが根室に来て通商を求め、1808年にはイギリス船が長崎港に侵入するフェートン号事件が起きました。世界がだんだん日本に迫ってきていたのです。
決定的だったのが、1840〜42年のアヘン戦争です。アジアの大国だった清(中国)が、イギリスにあっけなく敗れました。「あの大国ですら西洋にかなわない」という知らせは日本にも伝わり、幕府に強い危機感を与えました。
幕府は当初、1825年の異国船打払令で「外国船は問答無用で追い払え」という強硬策をとっていました。しかしアヘン戦争の衝撃を受けて方針を転換し、1842年には薪水給与令を出して、燃料や食料を与えて穏便に帰ってもらう形にゆるめます。こうして緊張が高まるなか、1853年、ついにペリーの黒船がやってきました。
フィルモア大統領の親書を渡し、開国と通商を要求。断りにくい公式文書で迫った。
江戸湾の奥深くまで侵入して測量・空砲。江戸の街は大パニックになった。
宿題を残していったん退去。翌1854年に再来航し、日米和親条約を結ばせた。
蒸気船海軍を重視した軍人。強硬な態度で開国を迫った。
日本に開国を求める国書の差出人。
前例を破り朝廷への報告や諸大名への諮問を行った(安政の改革)。
ペリー来航の直後に病死。幕府は難局を迎えた。
1858年に日米修好通商条約を無勅許で調印。桜田門外の変で暗殺される。
1853年に最初に来た4隻のうち蒸気船はサスケハナとミシシッピの2隻だけ。残るサラトガとプリマスは風で動く帆船だった。蒸気船が帆船をロープで引いて浦賀沖に現れたため、日本人にはすべてが謎の巨大船に見えた。
最新技術を見せつけるため、蒸気機関車の模型・電信機・ミシン・チョコレート・ワインなどを持参。ただし機関車は実物大ではなく約4分の1のミニチュアで、大人は中に入れず車両の屋根に乗って走らせた(これらの実演は主に翌1854年の再来航時)。
体格差に圧倒されないよう、幕府は大相撲の力士を呼び寄せた。力士は約60kgの米俵を2つ同時に軽々と担ぎ、アメリカ側を驚かせた(1854年の贈答・儀礼の場での出来事)。
ペリーはもともと地中海艦隊の司令官を希望していたとされる。当時の海軍では極東への派遣は地味な任務とみなされていたが、最高クラスの権限を条件に日本行きを引き受けた。
ペリーは日本人の気質を事前に研究し、高圧的に出るほど有効と判断。下級役人とは会わず、湾内深くまで侵入して砲を撃つなど、恐怖心を植え付ける演出で交渉を有利に進めたと言われる。
ペリー来航は、単に「外国船が来た」だけの出来事ではありません。200年以上続いた鎖国体制が崩れ、日本が世界の荒波に投げ出される転換点でした。幕府が朝廷や大名に意見を求めたことで幕府の権威はゆらぎ、開国か攘夷かをめぐる対立が激化。やがて倒幕・明治維新へとつながっていきます。「嫌でござる(1853)」の語呂とともに、“日本の近代の入り口”として押さえておきましょう。