語呂で覚える日本史年号語呂合わせ・日本史暗記
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ペリー来航(浦賀)の浮世絵イラスト
幕末の開国 ①中学/外交
1853

ペリー来航(浦賀)

マシュー・ペリー(アメリカ東インド艦隊司令長官)
語呂
覚え方
嫌でござる ペリー来航
嫌(1・8)でご(5)ざ(3)る

1853年(嘉永6年)、アメリカ海軍のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に現れました。世にいう「黒船来航」です。ペリーはフィルモア大統領の国書を手渡し、200年以上続いた鎖国を解いて開国するよう日本に迫りました。幕府は即答を避け、ペリーは「1年後にまた来る」と告げて去ります。そして翌1854年、再来航したペリーとの間で日米和親条約が結ばれ、日本はついに開国。ここから幕末の激動が始まりました。

この記事のポイント

  • 1853年、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航(黒船来航)
  • 目的はアメリカの捕鯨船の寄港地確保や貿易のための開国要求
  • 幕府は即答を避け、ペリーは翌年の再来航を予告して退去
  • 翌1854年に日米和親条約を締結し、日本は開国(下田・箱館を開港)
  • 約200年の鎖国の終わり=幕末の動乱・明治維新の起点になった
ここが面白い

“黒船”4隻のうち蒸気船は2隻だけ。しかもペリー自身は日本行きを嫌がっていた。

ここに至るまでの流れ
背景

ペリーは、ある日とつぜん現れたわけではありません。実はその数十年前から、日本の周りには少しずつ外国船が近づき、幕府は対応に頭を悩ませていました。ペリー来航は、その積み重ねの“総仕上げ”として起きた出来事です。ここに至るまでの流れを見てみましょう。

そもそも鎖国とは

江戸幕府は17世紀前半、キリスト教の禁止と貿易の管理を目的に、対外交流を大きく制限する体制をとりました。これがいわゆる鎖国です。とはいえ完全に国を閉じていたわけではなく、長崎(オランダ・中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)という4つの窓口を通じて、限られた交流は続いていました。

日本の近海に迫る外国船

18世紀の末になると、日本の近海に外国船がたびたび現れるようになります。1792年にはロシアのラクスマンが根室に来て通商を求め、1808年にはイギリス船が長崎港に侵入するフェートン号事件が起きました。世界がだんだん日本に迫ってきていたのです。

アヘン戦争の衝撃

決定的だったのが、1840〜42年のアヘン戦争です。アジアの大国だった清(中国)が、イギリスにあっけなく敗れました。「あの大国ですら西洋にかなわない」という知らせは日本にも伝わり、幕府に強い危機感を与えました。

「打払い」から「補給を認める」へ

幕府は当初、1825年の異国船打払令で「外国船は問答無用で追い払え」という強硬策をとっていました。しかしアヘン戦争の衝撃を受けて方針を転換し、1842年には薪水給与令を出して、燃料や食料を与えて穏便に帰ってもらう形にゆるめます。こうして緊張が高まるなか、1853年、ついにペリーの黒船がやってきました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

大統領の国書を手渡す

≒ 国家元首からの正式な通商オファー

フィルモア大統領の親書を渡し、開国と通商を要求。断りにくい公式文書で迫った。

軍事デモンストレーション

≒ 力を背景にした威圧外交

江戸湾の奥深くまで侵入して測量・空砲。江戸の街は大パニックになった。

「1年後に返事を聞きに来る」と予告

≒ 回答期限を切った交渉

宿題を残していったん退去。翌1854年に再来航し、日米和親条約を結ばせた。

前後のできごと
年表
1853
来航ペリーが浦賀に来航。大統領の国書を渡し、返答を求めて退去。
1854
開国ペリー再来航。日米和親条約を締結し、下田・箱館を開港。
1856
総領事アメリカ総領事ハリスが下田に着任。通商条約を求める。
1858
不平等条約大老・井伊直弼が日米修好通商条約を無勅許で調印(不平等条約)。
1860
暗殺桜田門外の変。開国を進めた井伊直弼が暗殺される。
1868
維新明治維新。開国が幕末動乱をへて新しい時代へつながった。
結果とその後
結果
翌1854年の日米和親条約で日本は開国。約200年の鎖国が終わった。
幕府が朝廷や大名に意見を求めたことで権威がゆらぎ、1858年の不平等条約とあわせて倒幕・明治維新の引き金になった。
登場人物
人物

マシュー・ペリー

アメリカ東インド艦隊司令長官

蒸気船海軍を重視した軍人。強硬な態度で開国を迫った。

ミラード・フィルモア

当時のアメリカ大統領

日本に開国を求める国書の差出人。

阿部正弘

老中首座(幕府のトップ)

前例を破り朝廷への報告や諸大名への諮問を行った(安政の改革)。

徳川家慶

12代将軍

ペリー来航の直後に病死。幕府は難局を迎えた。

井伊直弼

のちの大老

1858年に日米修好通商条約を無勅許で調印。桜田門外の変で暗殺される。

キーワード解説
用語
黒船
船体に防腐用のタール(コールタール)が塗られ黒く見えたことから、来航した西洋の軍艦をこう呼んだ。
鎖国
江戸幕府が対外交流を強く制限した体制。ただし実際はオランダ・中国・朝鮮・琉球とは交流があった。
蒸気船
石炭で蒸気機関を動かし外輪で進む船。風向きに左右されず自由に航行でき、当時の最先端技術だった。
日米和親条約
1854年に結ばれた条約。下田・箱館を開港し、食料や燃料の供給などを認めた(神奈川条約とも)。
もっと知りたい
豆知識

1蒸気船は4隻中「2隻」だけだった

1853年に最初に来た4隻のうち蒸気船はサスケハナとミシシッピの2隻だけ。残るサラトガとプリマスは風で動く帆船だった。蒸気船が帆船をロープで引いて浦賀沖に現れたため、日本人にはすべてが謎の巨大船に見えた。

2蒸気機関車やミシンをプレゼント

最新技術を見せつけるため、蒸気機関車の模型・電信機・ミシン・チョコレート・ワインなどを持参。ただし機関車は実物大ではなく約4分の1のミニチュアで、大人は中に入れず車両の屋根に乗って走らせた(これらの実演は主に翌1854年の再来航時)。

3日本側は「力士」で対抗した

体格差に圧倒されないよう、幕府は大相撲の力士を呼び寄せた。力士は約60kgの米俵を2つ同時に軽々と担ぎ、アメリカ側を驚かせた(1854年の贈答・儀礼の場での出来事)。

4じつは日本行きを嫌がっていた

ペリーはもともと地中海艦隊の司令官を希望していたとされる。当時の海軍では極東への派遣は地味な任務とみなされていたが、最高クラスの権限を条件に日本行きを引き受けた。

5徹底した「はったり」の心理戦

ペリーは日本人の気質を事前に研究し、高圧的に出るほど有効と判断。下級役人とは会わず、湾内深くまで侵入して砲を撃つなど、恐怖心を植え付ける演出で交渉を有利に進めたと言われる。

語呂クイズ
「嫌でござる ペリー来航」= ペリー来航(浦賀)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ペリーはどこの国の人ですか?
A. アメリカ合衆国の海軍軍人で、東インド艦隊の司令長官でした。
Q. ペリーはどこに来航しましたか?
A. 1853年に浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に来ました。翌1854年は神奈川(横浜)沖に来航しています。
Q. なぜペリーは日本に来たのですか?
A. アメリカの捕鯨船の寄港地を確保することや、中国との貿易の中継地を得ることなどが目的で、開国を求めて来ました。
Q. 黒船はなぜ黒いのですか?
A. 船体に防腐のためのタール(コールタール)が塗られており、黒く見えたためです。
Q. 日米和親条約と日米修好通商条約の違いは何ですか?
A. 和親条約(1854年)は開港と食料・燃料の供給が中心です。修好通商条約(1858年)は自由な貿易を認めた不平等条約で、内容が大きく異なります。
まとめ

ペリー来航は、単に「外国船が来た」だけの出来事ではありません。200年以上続いた鎖国体制が崩れ、日本が世界の荒波に投げ出される転換点でした。幕府が朝廷や大名に意見を求めたことで幕府の権威はゆらぎ、開国か攘夷かをめぐる対立が激化。やがて倒幕・明治維新へとつながっていきます。「嫌でござる(1853)」の語呂とともに、“日本の近代の入り口”として押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
年号1853は「初来航」。贈り物・機関車・力士・条約締結は主に翌1854年の再来航時の出来事。
機関車模型は『実物大』ではなく約4分の1スケール(原案の記述を修正)。
④⑤は評価・通説を含むため断定を避けた表現にしている。